映画『オッペンハイマー』をより理解するための推薦図書

映画『オッペンハイマー』はオッペンハイマーという一人の科学者の生涯を描きながらも、彼本人の視点(1954年の聴聞会)とルイス・ストロースの視点(1959年上院での公聴会)が交差するかたちで構成されています。さらにそれぞれの視点から原爆開発や両人の対立のきっかけなど過去の出来事の回想がなされる入れ子構造になっているため、鑑賞者が歴史的な事実を踏まえていないとかなり理解しずらい映画となっています。

 

このような複雑な構造をもつ映画『オッペンハイマー』をよりよく理解するための文献を紹介しようと思います。

カイ・バード、マーティン・J・シャーウィル『オッペンハイマー 上・中・下』(川邉俊彦訳、早川書房

映画『オッペンハイマー』原案の傑作ノンフィクションが文庫化!(本文試し読み公開)|Hayakawa Books & Magazines(β)

まずは本作の原案にもなったこの本。原著('American Prometheus')は2005年に出版され、ピューリッツァー賞を受賞した伝記です。邦訳自体は2007年に一度出版されていたのですが、絶版になってしまったので手が届きにくい状態になっていました。しかし2024年1月に早川書房から新たな監訳・解説をつけて改題して再び出版されることになり、現在は書店にいけば手に入ります。
文庫版の上中下巻の構成で本文だけでも1200ページもあるのでかなりの大著ですが、オッペンハイマーの性格や彼の事績、おかれた環境・人脈にいたるまで、膨大な情報量をもとに一貫した筆致で描き切っています。栄光と挫折を味わった一人の科学者のパーソナルな部分を理解できる文献になっています。
映画のほうはこの本にかなり忠実に依拠しているため、これをよめば映画で描かれている場面がいつのどの事実を描いたものなのかわかるかと思います(もちろん映画オリジナルの場面もあります)。そしてこの本をよめば、ノーラン監督がこの本で出てくる場面をどのように構成しているのかがわかり、「ここをこうつなげるのか!」とか「この場面をこう演出するのか!」といった発見や驚きを味わうことができるのではないかと思います。
たしかに大著なので、読むのに苦労する面もあり、そこまで時間がない人は中巻(マンハッタン計画)と下巻(戦後~死去)を読めば映画で起きている出来事はだいたい理解できるはずです。

 

藤永茂ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(ちくま学芸文庫

筑摩書房 ロバート・オッペンハイマー ─愚者としての科学者 / 藤永 茂 著 (chikumashobo.co.jp)

こちらは日本の研究者によって書かれた伝記。前出の本がオッペンハイマーのパーソナルな部分に定位して書かれたのにたいして、こちらは当時の時代的背景や彼の科学的業績が科学史のなかでどのように位置づけれられるのかという点にも注目して書かれています。サブタイトルにもあらわれているように、一人の人物というよりも一人の科学者という視点でオッペンハイマーの人生を描いています。
これまでの資料を再検討するというスタンスでかかれているため、解釈のレベルでは著者の見解がかなり盛り込まれており、ちょっとクセのある書きぶりにはなっています。
また本書は物理学者による著作ということもあり、核分裂の解説や原子力爆弾の構造に関する説明などがわかりやすくかかれています。この本のおかげで、映画のなかで科学者たちが議論している場面やオッペンハイマーの脳内イメージの場面について、「なにが描かれているのか」というレベルまでしっかりと映画が理解できたと個人的には思っています。
この本は400ページほどなので、1200ページもある本なんか読みたくないという人には最低限この本だけは読んで映画を見ることをお勧めしたいです。

 

以上2冊の紹介になりました。この紹介が映画を理解する一助になれば幸いです。

20240328_映画「オッペンハイマー」の感想

今週月曜日に映画『オッペンハイマー』の先行上映があり、新宿のTOHOシネマズへ見に行ってきました。席予約の争奪戦にちょっと出遅れてしまったので、そこまでいい席ではなかったのですが、IMAXの品質は十分に味わうことができました。

 

とりあえず1回目見に行った感想を書き連ねていこうと思います。

 

日本公開が遅れに遅れていたこともあり、公開を待ち望んでいた多くの人にとっては「やっとか。。。」という思いでしょう。自分もその一人です。そもそもアメリカでは映画『バービー』と同日公開だったので、本来であれば日本での公開も『バービー』と同じくらいでもおかしくないはずです。しかし日本公開にむけて少なくとも2つほどの障害が出てきてしまい、公開が遅れに遅れてしまったようです。一つは、扱っている題材が日本にとってこれ以上ないほどセンシティブな出来事である原爆であるという点です。原爆開発に携わった科学者の生涯を描いた作品であることから、8月の原爆投下の日に近い日での公開は避けたようです。もう一つはBarbenheimerというミームSNS上で非常に配慮のないかたちで拡散してしまったことです。『バービー』と『オッペンハイマー』という数年に一度の作品がでたこともあり、アメリカの映画界隈では2つを並べて語ることで、かなり盛り上がっていたのでしょう。しかし、そのノリは日本側からみれば、原爆投下というセンシティブな事象を茶化しているともうけとれます。公式の対応もこのいわば不謹慎ノリを止めることなく、加速させてしまったことから、日本側からひんしゅくを買うことになってしまいました。アカデミー賞最有力候補でありながら、公開日すら決まっていない状況に、「まさか日本での劇場公開はなくなってしまうのか・・・?もっと状況が悪ければ日本で視聴する手段すら提供されないのでは・・・」とさえ思っていました。そのような状況が長らく続いていましたが、年明けにやっとビターズ・エンドという配給会社から公開することが決まりました。

 

このような状況もあり、「オッペンハイマー」は公開前から最注目の映画になっていました。とんでもない作品がでてきたという情報を得てからかなり時間がたっていたので、自分の個人的な期待や興味は通常の作品とは比べものにならないレベルに膨れあがっていました。そんな同志がたくさんいるかなと思いましたが、先行上映会は熱気に包まれるというよりも、「やっとみることができる・・・」という安堵感が漂っている印象でした。ちなみに先行上映会ではパンフレットの販売もあり、パンフレットの方も通常公開よりも早めに購入するができました。内容的には演者やスタッフインタビュー、評論家や専門家による解説・批評という感じで、一般的なものです(軽く読んだだけなので、これからしっかり読もうと思います)。

 

鑑賞後に最初にでてきた感想としては、原爆の父である科学者の栄光と挫折・苦悩を、見事に描き切った傑作というものでした。複数の時間軸とオッペンハイマーとその政敵であるルイス・ストロースの2人の視点を交差させながら、核を人類にもたらした一人の人間の罪と罰を鑑賞者に印象付けることができていたと思います。ほぼこれが自分のこの映画の結論のようなものです。

 

「難解である」という前評判からややかまえて観に行ったものの、そこまで難しいと感じられるところはなかったです。とくに自分は原案となった"American Prometheus"(邦訳『オッペンハイマー上・中・下』(早川書房))を一通り読んでいたので、背景も理解できたし、多数の登場人物の把握もあまり苦にならなかったです。そもそもセリフで画面に映っている人が誰なのかも言ってくれていたりするので、思っていたよりかなり親切なつくりでした。

 

IMAXシアターで見たこともあり、映像の没入感にはとてつもないものがありました。オッペンハイマーの脳内でのイメージは、繊細で研ぎ澄まされた彼の想像力を観客に説得力をもって感じさせるものになっています。さらにトリニティ実験のシーンなどは畏怖すらも感じる迫力を味わいました。

 

複数の時間軸の交差は映画を理解しづらいものにしているけど、ここがこの映画最大のポイントではないかと思います。ノーラン監督は過去多くの作品で時間軸を操作して映画の語りを形成しているので、監督の常とう手段というか得意なことなのでしょう。今回でいえば戦後に行われたオッペンハイマーのセキュリティクリアランスにかんする聴聞会の時間軸をメインとしているはずです。そこに原爆開発の時間軸を交差させることで、オッペンハイマーの人生、そして彼の犯したミスはどのようなものであったのか、それによって彼が背負った罪はどのようなものであったのかを遡及的に語りなおしています。原爆開発などの時間軸の直後に聴聞会のシーンを挿入することで、過去の彼の行いがその後どのように彼自身を苦しめることになるのかをうまく説明させ、印象的なものにしているともいえます。またストロースの視点からみれば、ストロースの商務長官の任命に関する議会での聴聞会の時間軸(オッペンハイマー失脚後)をメインにすえています。彼がオッペンハイマープリンストン高等研究所所長に迎えた時間軸、オッペンハイマーから屈辱をうけた時間軸、オッペンハイマーの失脚を狙い陰謀を企てる時間軸を交差させることで、なぜ彼が最初は憧れすらいだいていたオッペンハイマーを憎むようになったのか、そして彼にもまた背負ってしまった罪があるというのを描いています。このように複数の時間軸をうまく操作することで、単なる一直線の時間軸では描けない罪と罰の描写を可能にしているのだろうと考えます。

 

日本公開の是非が議論になっていたころは、「原爆開発者を英雄化した作品」という誤った印象が広まっていましたが、実際の作品は全く異なった視点から描かれたものでした。むしろ、技術的興味や功名心にひかれてしまった科学者のはまった罠やその後の後悔を描いた作品です。そしてこのようなものは私たちの人生にも転がっているものなのではないかと、問うているようにも見えます。また現状の核武装の状況、オッペンハイマーが変えてしまった世界に生きる私たちにとって、世界を滅ぼすほどの兵器がもはや自明視されそれに安住していることへの異議申し立てでもあるといえるでしょう。初期の核兵器開発の状況や彼の懸念・懺悔を追体験することで、現状を相対化する視点を与えてくれるのではないでしょうか。

 

このように現代社会における重大なテーマを扱いながらも、圧倒的な映像美で鑑賞者に充足感を与える作品になっています。ぜひ劇場で観れるうちに観ることを強くオススメします!

20240304_最近見た映画短評

最近劇場や配信サービスで見た映画の短評をいくつか書き残しておこうと思います。

『哀れなるものたち』

『哀れなるものたち』2024年1月26日公開決定!日本版新ポスターが解禁! | Fan's Voice | ファンズボイス

ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演。
一度は自殺してしまった女性(ビクトリア)の遺体を引き取った外科医ゴドウィンが、彼女が身ごもっていた胎児の脳を遺体に移植して、ベラという新しい女性に生まれ変わらせる。ゴドウィンに大切に養育されていたベラだが、やがて外の世界に旅にでて、様々な経験を重ねて、一人の人間として自立していく物語。
世界観の構築力が素晴らしい映画だとおもった。19世紀ロンドンでスチームパンクの仮想的な世界がかなりよく作りこまれている。装飾品から家の家財道具、町で走っている蒸気機関を利用した乗り物など、どれをとっても作り出した世界になじんでいる。
ストーリーはベラの自立の物語が、女性の社会進出の発展段階と軌を一にして進んでいく形。やや戯画化されている面もあると感じたが、2時間くらいでおさめないといけないので、しょうがないところもある。
この映画がフェミニズム映画なのかは評価が分かれるところで、実際にかなり議論されているらしい。個人的にはフェミニズムの観点から見るよりも、ひとりの女性の成長と自立という観点から見るのが適切なのではないかと思う。ベラを抑圧しようとする家父長制的な男性たちがことごとく潰されていく(あるいは自滅していく)という描写は確かにあるけど、そこまでイデオロギー色を打ち出している映画には思えなかった。
とにかくエマ・ストーンの演技がよく、序盤での脳みそは胎児で身体は成人女性という状態のあどけなさやはつらつとした肉体表現には舌をまいた。演者の演技から衣装・美術・演出・カメラワークにいたるまで、細部に手が行き届いている作品だった。

 

『ダム・マネー ウォール街を狙え!』
映画『ダム・マネー ウォール街を狙え!』開始3秒から“Fワード”全開な予告映像、ポスタービジュアルを解禁 - ムービーコア

現実におきたアメリカの「ゲームストップ騒動」という市場の出来事の顛末を描いた作品。落ち目のゲーム販売会社ゲームストップ社の株をめぐり、空売りを仕掛ける機関投資家たちに、一般市民の投資家(いわゆるダムマネー)が対抗する。
サブプライムローン金融危機を描いた『マネー・ショート(原題:Big Short)』のように解説がないので、株式市場に慣れていない人には何が起きているのかわかりにくいかも。ようは、株価が下がる方に賭けている巨大な投資家と、上がる方に賭ける一般投資家の攻防戦。
たしかに機関投資家連中は卑怯な手を使っているのだけど、空売りじたいは市場の正当なルールにのっとってやっていることなので、劇中で憎悪をかきてるほど巨悪だろうか?と思ってしまった。むしろ実体経済(ここではゲームストップ社の経営)にほとんど関心を持たずにマネーゲームに興じてる時点で、機関投資家もダムマネーの皆さんも同じ穴のムジナなのでは・・・とも。
見る前はそもそも映画にするほど味のある事件かなと思っていたけど、ミームをインサートしたりする(今どきの?)演出やテンポの良さで見ていて飽きることはなかった。

 

『落下の解剖学』

出演作2本がアカデミー賞ノミネート!『落下の解剖学』主演女優ザンドラ・ヒュラー、圧倒される表現力 - 2ページ目|最新の映画ニュースなら ...

ジャスティーヌ・トリエ監督作品。アカデミー賞作品賞など複数部門にノミネートされていて、とくに脚本賞の有力候補との呼び声高い作品。
雪深いフレンチアルプスの山小屋に住む家族の父親がある日家の2階から転落死してしまう。その死の真相をめぐって、妻が容疑をかけられ自殺か他殺かが法廷で争われるという内容。
法廷ミステリーものというよりは、落下によって少しずつ明らかにされる人間関係のほつれや葛藤・確執などが明らかにされていくというストーリーになっている。結局映画が終わるまで「ことの真相」みたいのなのが明らかにされないので、まったくミステリーという意識はないのだろうと思われる。物語序盤から醸し出される夫婦間の不穏な感じに徐々にメスを入れられ、しこりが摘出されていくところは、まさに解剖学であり、この映画が脚本賞有力候補といわれるゆえんなんだろうと思った。
ただ、中盤の展開が静かでゆっくりしていたので、かなりうとうとしてしまった。あとは劇中に出てくる犬の体調を崩す演技がうますぎるのでびっくりします。

 

『ボーは恐れている』

ママ怪死で“最狂の帰省”開始、アリ・アスター最新作「ボーはおそれている」予告 - 映画ナタリー

アリ・アスター監督、ホアキン・フェニックス主演。
アリ・アスター監督の長編3作目にして、初めてのコメディ映画(一応)。前の2作品でホラー映画の巨匠みたいな評価だったので、長編3作品目ときいて驚いた。
映画の内容は、主人公でとにかく心配性の(そしておそらく精神的な障害をかかえている)ボーが、事故で死んだ母親を弔うために実家に帰ろうとする道中で様々な災難に遭うというもの。
ボーはただ実家に帰りたいだけなのに、次から次へと災難が降りかかってくる。観客の「こうなってほしくないなあ」という予感や不快に感じるツボをことごとく刺激して、いやな気持にさせてくる作品。こういう観客心理をよむのがうまい監督なんだろう。
よく批評家に指摘されているところによれば、「何もしていないのにことごとく不運に見舞われる」というストーリーは旧約聖書ヨブ記に由来するものらしい。ヨブ記ではヨブという男性が神から災難に遭わせられ、それでも信仰を維持するのかを試される。終盤で明らかにされる事実とこのことを照らすと、この作品における「主人公に災難をあわせる神」は特定できるのだが・・・。監督個人のトラウマや宗教観(作品内のボーもアリ・アスター監督もユダヤ教徒)を反映したものなんだろうか?
どうも興行的には失敗した作品になってしまったらしく、本作品のようなアリ・アスター監督が描きたいものを描きまくるというアートムービーはもうこれが最後なのかも。

 

アメリカンフィクション』

American Fiction DVD Release Date

日本での劇場公開はなく、先月アマゾンプライムビデオで配信開始された作品。
アメリカの売れてないインテリ黒人作家(モンク)がやけになり、これまでの高踏な作家性や芸術性を捨てて、ステレオタイプ的な(粗野で下品な)黒人像に見合った作品を書いたところ、バカ売れして予想外の評価を得てしまうというコメディ映画。
アメリカの出版界や出版にともなう慣行(売れると見込まれた作品は出版前に映画化契約が結ばれる)などを皮肉りまくる作品になっている。たしかにこうした風刺的な側面もあるのだけど、芸術の達成をとるのか世評をとるのかというモンクの葛藤や、認知症の母親との関係など、単に風刺だけにとどまらない奥行きをもった作品になっている。そして社会風刺を見事に描きながらも、コメディ映画らしくちゃんと笑わせてくれる場面もあった。
ラストの展開は脚本が煮詰まらなかったのかなという印象を持ってしまったけど、見る前の期待以上の満足感を感じることのできた作品だ。なんでこんなよくできた映画が日本では劇場公開なしだったのか、はなはだ疑問ではある。まあアマゾンプライムで配信した方がより多くの視聴者を得ることができると思うので、それをとったのだろうか。

映画評「ゴジラ -1.0」

前回の映画評から少し時間が空いてしまいましたが、また映画評を書こうと思います。

 

今回扱う作品は2023年11月3日公開「ゴジラ -1.0」です。ALWAYSシリーズや「永遠のゼロ」などを手掛けた山崎貴監督が脚本・VFX・監督を務め、浜辺美波神木隆之介が出演しています。終戦直後を舞台にした本作では、焼け野原から復興を遂げようとする東京が無残にもゴジラによって襲われます。戦時中特攻隊に選ばれながら出撃をためらい終戦を迎えた敷島浩一やその仲間たちがゴジラの駆除に向かい、絶望的な戦況の中で彼らは唯一の希望にすべてを託す・・・というあらすじになっています。

 

2016年の「シン・ゴジラ」以来7年ぶりの実写ゴジラ映画であり、またゴジラ70周年ということで公開前後にはかなり宣伝もいれて、各種メディアでも盛り上がっています。さらに実際に見たという人によるSNSでの反響もかなり大きく、名実ともに現在最も注目を集めている映画だと思います。

 

自分が映画をみているなかで感じた最初のインパクトはゴジラの質感でした。ゴジラの背びれにあたるサンゴのような突起からはゴツゴツとした感触が手に取るように伝わりました。またゴジラが立ったときの、生物としては不格好な腹の出方で、とてもスタイルが良いとはいえない胴体を、縦横無尽に動かす姿には生き生きしたはつらつさを感じました。その不格好な四肢をもったゴジラが復興途上の東京を破壊しつくさまは、パニックの場面でもありつつ同時にゴジラファンとして「もっとやれ!」的な爽快感さえ感じさせるものがありました。これはやはり現代CG技術の旗手である山崎監督のなせる業なのでしょう。この点はゴジラという題材をフルに活用しつつ、観客の度肝を抜く迫力を出した点で評価されるべきポイントであると考えます。

 

CGや特撮などの技術面は他の多くの人が語るでしょうから自分はこの程度にしておきます。それよりも自分が語りたいのは、2016年の庵野秀明監督による「シン・ゴジラ」との差異です。なぜシン・ゴジラと本作の違いを語りたいかというと、それは明らかに本作は「シン・ゴジラ」がやらなかったことを描いて、ほとんど対立軸として位置づけられる作品であるからです。両作品とも由緒ある国産ゴジラ作品として「お約束」的な側面は踏襲しつつも明らかに方向性の異なる映画となっています。

 

シン・ゴジラの主人公は日米政府の政治家や高級官僚などのエリートであり、彼らの政治的な駆け引きやいびつながらも一つの目標に進むチームワークを中心に物語が進みます。そんなシン・ゴジラではパワーエリートではない人間はほとんど出てきません。一方本作の主人公敷島は言ってしまえば敗残兵であり、玉砕した(ということにされている)戦地から復員してきた負け組です。彼の周りにいる人々も何らかの形で戦のダメージを負った人間たちです。政府の役人や軍関係者はまったくといっていいほど出てきません。戦災以上の国家の危機なのに進駐軍を含めた軍事・政治の関係者が不自然なほどに出てこないのは、やはりシン・ゴジラとの対比を打ち出したかったのだろうと思います。

 

そしてシン・ゴジラではエリートたちが練り上げた計画を実行するために官民が総力をあげてゴジラの駆除に乗り出します。そして主人公グループはその作戦実行にたいして指示監督する立場のまま物語が終わります。しかし本作では主人公やその身の回りにいる人間が陣頭にたち、そして実際に生身の人間が容赦なくゴジラから攻撃をくらい死んでいきます。あくまで主人公たちは体制側の人間として作戦・用兵に徹する、トップダウン型の作品であるシン・ゴジラと、民間主導で主人公たちは身の危険を顧みずにゴジラに挑むボトムアップ型の本作、というふうにもいえるかもしれません。

 

市民の側から見たゴジラ作品であるので、本作では当然彼ら市民の生活も描写し、彼らのかかえる葛藤、人間関係、恐怖も描きこんだものになっています。そしてそれはシン・ゴジラでは省略され、そのことによってシン・ゴジラが評価される点でもあります。ではここまでシン・ゴジラとの対立軸を打ち出し、シン・ゴジラで描かなかった要素を描いてきた本作は、その描きこみをゴジラ作品というフレームに落とし込めているでしょうか。

 

自分は、評価できる点もあるが、ゴジラ作品としてはミスマッチだった点もあるのではないかと思っています。前述したようにCGを駆使したゴジラの躍動感によって、市民の暮らしが破壊されることの容赦のなさは特筆すべき点があります。ここまで冷徹に破壊を描きこんだのはやはり評価すべきポイントです。明確に人がゴジラに殺傷されるシーンを作ったのも、徹底したリアリティのある表現として素晴らしいと思います。

 

しかし、主人公周辺の葛藤とその解消には納得できない点があります。本作で描かれている大きな構図としては、圧倒的な力で破壊しつくす怪獣にたいして、犠牲的な死をもって解決するのか、それとも生きて抗うのかーーまさに本作キャッチコピー「生きて、抗え。」のとおりーーというものになっています。主人公敷島は戦争で死ねなかった自分に対する情けなさと、自分のせいで死んでいった戦友たちの記憶にさいなまれながら戦後を生きている人間です。その敷島がとる選択はどのようなものであるかが本作の一大テーマになっています。問題はこの対立はちゃんと成立しているか、そしてこの作品では主人公が主体的に生を選びとっているようには見えないという点です。

 

すこし話はそれますが、ゴジラがどのような存在なのかをちょっと考えてみます。ゴジラはこれまでいろいろな語られ方をしましたが、その中でも有名なのがゴジラ怨霊説(英霊説)というものです。要はゴジラは戦争や戦災(とくに原爆)で無念のうちに死んでいった戦没者による集合的な霊のようなものなのだ、という話です。だからこそゴジラは、戦後のうのうと暮らしている日本とくに東京に襲来して恨みを込めた攻撃を行うし、自分たちの味わった苦しみ(放射線による攻撃)を与えるし、兵器などを忌み嫌う性質を持っている、というのがゴジラ怨霊説の解釈です。ゴジラ1作目公開は1954年で終戦から10年もたたないうちに公開されています。戦争というものがアクチュアリティをもっていった時期の表現として、ゴジラはギリギリのラインを攻めた作品だったのだろうとも考えられます。そして本作は、このゴジラ怨霊説を明確にとった作品だったと感じました。シン・ゴジラが災害的で無差別的な攻撃を仕掛けてきたのに対して、今回のゴジラは明確に人間に対して殺意をもって攻撃を行います。そして戦艦や飛行機をみると怨念のこもった攻撃をあたえます。つまり単なる災害的な存在ではなく、本作のゴジラは明確に意思をもって破壊行動を実行するように描かれています。なぜゴジラは復興途上の東京を襲うのでしょうか。本作の答えは、「戦没者の怨霊のメタファーだから」ということになるでしょう。

 

そのようにゴジラという存在を解釈してみると、本作の構図も理解しやすくなると思います。つまり怨霊であるゴジラはすべてを破壊し、生きとし生けるものすべてを死にいざなう存在です。戦中に自分のした行為によって戦死者を生んでしまったと考える主人公は、いったんはゴジラ側、つまりは自らの死によってそのトラウマや後悔に対処しようとします。しかし彼はその選択をとらず生きることを選択することになります。これが本作が描きたかったテーマの概略になります。

 

話は戻ります。確かに市井の人々の目線からのゴジラ作品ということで、彼らの葛藤を丁寧に描いている本作ですが、その「生きて、抗え」という主題が、怨霊であるゴジラに対して十分な対立として成立しているのかが本作最大の疑問点になってきます。つまり、確固たる意志で初代ゴジラの精神を継承して、これだけ素晴らしいCG技術を利用してかなり明確に怨霊としてのゴジラを描いているにも関わらず、その対立点ーー我々はゴジラにたいしてどう生きるべきなのかということに対する本作の答えーーが弱すぎるのです。確かに主人公が生を選び取るという過程は描かれています。終戦直後、打ちひしがれていた彼に、仕事仲間ができ、生活を共にするものができ、子供の成長を見ることができた。それによって彼は死による解決ではなく、生による解決という選択をしたのだと、映画では雄弁に語ります。ですが、彼が生を選ぶにいたったきっかけをよく見ると、すべて外発的なものでしかないのです、映画で描かれてきた関連する出来事はすべて偶然と主人公に対する甘やかしでしかありません。主人公自身が主体的に「生きる」ことを選び取った形跡がなく、すべて惰性のままゴジラと対面しているとも言えます。そのような貧弱な意志しか持たないものが、なぜ強固な意志をもつゴジラを打ち破れるのか、まったく納得できないまま映画が終わってしまいました。なにも考えなしに生きる人間たちがゴジラを海に沈めるシーンで、自分は恐怖すら覚えました。つまり主人公たちは生を選び取っているというだけで、無制限に称賛されるべきで、それに対立するゴジラは力づくにでも沈めるというのか、と・・・。主人公が生を選ぶという描写に説得力を持たせられていれば、あるいはいっそのこと生と死という対立軸を取っ払って別機軸で描ければ、もしかしたら本作はさらに良作になっていたのではないでしょうか。

 

ながながと批判的な内容を述べてきましたが、確かに映像としてのクオリティは群を抜いてよい作品です。そして大きなスクリーンと上質なサウンドによって、怪獣映画としての臨場感を十分に味わえる作品になっていますので、ぜひ映画館で見るべき作品だと思います。総合的には非常にオススメです!

 

映画評「コカイン・ベア」

コカイン・ベア - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画


cocainebear.jp

映画「コカインベア」見てきました。

 

麻薬をアメリカから密輸しようとした密輸人がしくじって、アメリカの国立公園にコカインをばらまいてしまい、そのコカインをクマが摂取して大暴れする・・・というアニマル&コメディ映画です。

 

宣伝動画とか見るとコカインベアがメインの映画でコカインベアVS人間と思われるかもしれないですが、実際はコカインベアがでてくるシーンは映画全体の半分ないしは1/3くらいかなといった感じ。どちらかというとコカインベアの出現にパニックをおこした人間たちの荒れ狂うさまを描いた作品になっています。

 

最初の方は〈娘とその友人である男の子と彼らを探す母親〉〈コカインを回収しようとする密輸関係者〉〈おばさん公園管理人〉などの群像劇になっていますが、結局コカインベアが圧倒的な腕力で一つの軸に収斂させていきます。

 

パニックのなかで吹き出してしまうようなギャグシーン、スリルや残酷な描写を盛り込んだシーン、家族愛や勇気を描いたシーンありと「ドラッグ×クマ」というアイデア一本だけで押していくB級映画ともいいきれない出来に仕上がっています。

 

とくに自分は密輸関係者の2人組の掛け合いが最高に面白くて、映画見ているあいだにも吹き出してしまいそうになりました。たしかに悪い奴なのですが、どこか人間的なところがあり、完全に悪者になり切れない感じが気に入りました。

 

あとは男の子の謎の適応能力の高さもいい味を出していました(じつは作中でコカインベアと名付けたのは彼)。一度はコカインベアに襲われたのにも関わらず妙に冷静で、状況を描写しているさまが笑えてしまいます。

 

ラストのコカインベアと人間たちの描き方もかなりしっかりしているので、最後までだれることなく興味を持続させながら見ることができました。

 

というわけでコカインベア評でした。上映館数はそんなに多くないですが、映画館のスクリーンで見る価値はある、最高にキマってる作品になっているのでおすすめです。

20230923_チェックした論文リスト

Philosophy of Scienceの新着論文アラートがたまっていたので、消化のためにいくつか気になる論文をピックアップしてみた。ほとんどが無料で読める(なぜ?)。

 

20230807_チェックした論文リスト

The British Journal for the Philosophy of Scienceの過去5年分(2018~2023)から実在論やその他気になった論文をチョイス